2019年1月17日6 分

「家族」とは誰のことか

最終更新: 2020年5月26日

路上で踊り出す人々(2016年秋、トロントにて)

今日も読んでいただいてありがとうございます。

最近はブログ用の「お題」をメモしてストックしているのですが、今日はその中から「家族とは誰のことか」を選んでみたいと思います。

この「家族とは誰のことか」というお題(問い)は、実は10年くらい前から私の中にあったものです。

患者さんはホームレス?

当時、私は愛媛県にある精神科医療機関でソーシャルワーカーとして働いていました。

私の業務は、長きにわたり精神科に入院している患者さんたちが退院して病院の外で暮らせるようにすることでした。

「長きにわたり」というのは、具体的には数年~数十年です。

精神科には「社会的入院」という言葉があります。

精神的な病気じたいは大体よくなっているのに、「社会的」な事情から退院できず病院にとどまっている患者さんが、全国に数万人いるのです。

そのまま病院で一生を終える方もいます(精神科業界には「棺桶退院」という隠語があります。亡くなってようやく退院できるという意味です)。

彼らの退院を阻む「社会的」な事情はたくさんありますが、ここでは書きません。

当時、私は仲間たちとともに全国を飛び回り、「どうすれば退院できるか」をリサーチしました。

その途中、東京で、とある野宿者(ホームレス)支援団体に出会いました。

その団体の代表やスタッフの方たちは、私たちに以下のようなことを教えてくれました。

「”ホームレス”というのは、単に家がないというだけの問題ではないんだ。”ハウスレス”(家がない)に加えて”ファミリーレス”(家族がない)になったとき、人は”ホームレス”になるんだよ。」

「従来の”家族”にかわる、”新しい縁”を提供することが大切なんだ。」

これらの教えに、私は大きな感銘を受けました。

この「新しい縁」という言葉は「新しい家族」と言い換えてもいいと思います。

思えば、精神科に長期入院せざるを得ない患者さんたちには、病院の外に、帰ることのできる家がありませんでした(=ハウスレス)。

それは、多くの方が家族からの退院受け入れを拒否されていたからです(=ファミリーレス)。

つまり、彼らは野宿者と同様に”ホームレス”だったのです。

既に私たちは、地元の宅建業者さんたちの協力を得、患者さんたちに住居(ハウス)を提供する体制を作り上げつつありました。

そして、上のような教えを受けて、今度は「ファミリー」、つまり「新しい家族」をどのように患者さんの周りに築き上げるかを考えるようになりました。

この、”ファミリーレス”な患者さんたちの新生活づくりに携わった経験が、私が自分の家族観を「新しく」(自由に)するきっかけを与えてくれたのです。

私の考える「家族」の条件

社会的入院の患者さんの「新しい家族」づくりに携わった経験を経て、現在の私は「家族」の条件を以下のように考えるようになりました。

まず、一般的には重要とされているけれど、本当にそうなのかな?と思われるものを挙げていきます。

血縁:必須ではない。

血縁があるからといって、それだけで「家族」になれるとは限らないと私は思います。逆に言うと、血縁がなくても「家族」になることができます。

性別:関係ない。

と私は思います。

価値観の一致:必須ではない。

考えてみれば、同じなわけがないと思います。家族メンバーは互いに別個の人間です。別個の人間ということは、他人(他者)ということです。これを肝に銘じておくことが最重要だと思います。

他人なのに家族になっている、そのことにありがたみ(奇跡)があるわけで。

(関連記事:「妻は他人」という驚愕の事実につい最近気づいて悲しかったけどいい感じ

同居:必須ではない。

他の条件を満たすなら同居の必要もないと思います。

人間であること:必須ではない。

「愛する対象」や「愛されている感を与えてくれる存在」としては、動物や植物、ロボット、ぬいぐるみや石なども立派に「家族」になり得ると思います。

固定メンバーであること:必須ではない。

必要な家族機能はチームで細かく細かく分担すればいいと思います。近所のおじさん、友人、医療スタッフ、福祉スタッフ、役所の人、ヤクルトレディ、ペット、などなど。

「社会的入院」の反対で、「社会的家族」みたいなイメージ。ちゃんとした引き継ぎさえあれば、役割の代替わりもあっていいと思います。

次に、「家族」に欠かせないと思うものを挙げます。

困ったとき助け合えること:必須

この大前提として、「困った」「助けて」と言える関係である、ということがあります。むしろそちらの方が重要です。

自分に弱いところや苦手なことがあっても、そのことで批判されたり品評されたりしない。それが私の考える「家族」の第一条件です。

調子がいいときだけ受け入れられたり、いい成績を取ったときだけ褒められたりしていると、調子が悪く苦しい状況のときに「助けて」と言えません。つらいのを隠すようにさえなります。そうなるともう「家族」とは呼べません。

私にとって「家族」とは、「安心」と「無条件の肯定」を与え合える関係のことです。

(関連記事:子どもの私が願っていたこと①

一定の時間や体験を共有している(したことがある)

多くの「ふつうの家族」は同居していることでしょうから、この条件はクリアしています。

共通の歴史を持っているということは、基本的な信頼感につながります。たとえ今この瞬間にギクシャクしていても、この「ともにした歴史」のある家族なら、いちど何かのきっかけがあればガラッといい空気になることができます(「ダイアローグ」はその「きっかけ」のひとつです)。

血縁や同居のない「新しい家族」の場合は、「ともにした歴史」をつくるために、ときどき食事を一緒にする(という役割を相互に担い合う相手を作る)ことがとても重要だと思います。

他人になって、愛し合う。

ここまで書いてきたように、「家族」には、私たちがパッとイメージするような、血縁や同居にもとづいた「ふつうの家族」(旧い家族)の他に、家族機能をチームで担い合う「新しい家族」があります。

いわゆる「ふつうの家族」だからといって、「家族」としての機能を果たしているかというと、必ずしもそうではありません。

一方で、「ふつうの家族」より立派に「家族」として機能している「新しい家族」もあります。

どちらがよいという話ではありません。

今ある全ての「ふつうの家族」に、ちゃんと機能してほしい。メンバーどうし、愛し合い、無条件の肯定を伝え合って暮らしてほしい。

機能的な「ふつうの家族」が手に入らなかった人には、どうか「新しい家族」がありますように。

私はそう願っているだけです。それが私自身の切実な想いだったから。

逆説的ですが、愛し合うには、まず互いに「他人」になる必要があります。

愛するとは、相手のそのままをまるっと肯定することだから。たとえ、私には理解不能でも。

他人になって、愛し合う。

それが私の理想的な家族のイメージです。

全ての人が、そのままの「わたし」でいられますように。自分で自分を愛し、他者からも愛されますように。

全ての”家族”が機能しますように。他人になって、愛し合いますように。

すべての人に、そのような”家族”がいるようになりますように。「助けて」「つらい」と言える場があるようになりますように。

*****

今日も読んでいただいてありがとうございます。

明日も楽しいことうれしいこと、いっぱいあるといいですね!

↑「社会的入院」の解消のために駆けずり回っていた頃のことを、仲間たちと本にまとめたものです。

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