2019年5月14日12 分

「オープンダイアローグ」トレーニングコース受講レポート③

最終更新: 2020年5月26日

トルニオ行きと思って乗ったバスは隣町のバスターミナルに着き、そこはスウェーデンだった(2016年7月)

2019年5月3日から受講開始した、ODNJP主催の年間研修「オープンダイアローグトレーニング基礎コース(第2期)」の受講レポートです。

本記事は同トレーニングの第1ブロック第1クール3日目についてのものです。第1ブロックの第1クール(2泊3日)はこの日が最終日になります。

他の日のレポートはこちら。

昨日の喧騒はどこへ

この日の内的対話(ハイライト)

◆対話的な空間を作るには

この日は5人のグループでダイアローグをするワークがありました。お題は「どうしたら対話的な空間を作ることができるか」だったと思います(実はこのときのお題を精確に記憶しておりません。対話はどんどん予想外の方向へ行くものなので、当初のテーマの存在感が薄らぐこともあるように感じます)。

私にとって「対話的な空間」とは「安心感を持てる空間」ということもできます。この感覚を多くの参加者が(異なる表現ではあれ)共有していたようでした。

このとき(というか、いつも)私が引っかかったのは以下のようなことでした。

・どのような場に安心感を持てるか/危険性を感じるかは人それぞれであるということ。

・そして(それなのに)、場をどれだけ安心にするかの設定は、おおむね「安心感を持ちやすい人」「危険性を感じにくい人」に合わせてなされる傾向があるように感じられること。

最初に口に出したのが私だったか、他のグループメンバーだったか忘れましたが、私たちはこのことを「マジョリティ/マイノリティ」という切り口で話し始めました。

場の安心感の設定はマジョリティ側に合わせて設定されがちだが、安心感や危険性に最も敏感な人(マイノリティ)に合わせて設定されるべきではないのか。私の思ったのは、そういうことでした。

私は「場」や「人」に不安感を感じやすいので、私に合わせてほしいという気持ちが常にあります(笑)。

どうすれば私が安心を感じるかというと、「その場にいる全ての人がどんな物語(人生)を経ていま私の目の前にいるかが可視化されること」なのです。

これに対し、他のメンバーからは「自分の開示したくないことを開示させられるのは安全ではない」という意見が出されました。

私は「あー、なるほどー、言われてみると俺もそうだわー」と思いました。

他に、「マジョリティ/マイノリティ」はトピックによって誰がそうなるか変わるものだし、「マイノリティ」であることがパワー(権力)になって「マジョリティ」を抑圧することもある、という声も聴かれました。なるほどです(基本的なことでもあると感じます)。

私たちのグループのダイアローグは、(いちおう時間的な限りがありましたから)以下のように整理されました(とはいえ、これも私という個人による整理です)。

対話的な空間を作るには、

・「普段なら自粛するような内容でも話せる」「言葉が出てくるまでの時間の確保が保証されている」「話したくないときは話さなくていい」の3つが保障されていること

・そうした権利が最初に読み上げられること

・いま話さなくても次の機会があると感じられること

・安全性が属人的な要素(主催者の器とか)に影響されない、構造的なものであること

また、他のグループのアイデアで私にとっておもしろかったのは、「言葉が出てくるまでの間の沈黙の時間を待ってもらえるのはありがたいけど、同じ沈黙でも『話したくない』と感じているときの沈黙を待たれるとつらい」というものでした。

なるほどなー、と思いました。と同時に「どうやって見分けたらいいんだろう」とも思います(後日、別のワークで語り手に沈黙があったときに、しばらく待ったあと、「いまどっちの沈黙ですか」と試しに尋ねてみました。)

なお、ここまで長々とワークのことを書いてきたのですが、このワークの最中に私がいちばん心を動かされた(うれしかった)のは、私のマイノリティ性の話に、あるメンバーが呼応してくれたことです。私はそれを書きたかったのでした(笑)。

「同じ人がいた」ということに、私は安心したのです。そして後日、そのことが落とし穴だということに私は気がつくことになります。

◆勝手なスーツ

この日の夕方に、第1クールの締めくくりのグループワーク(3人でのダイアローグ)がありました。そこで、私はそれまで話す機会のなかった男性と一緒になりました。

私は初日にその男性が遠く視界に入ったとき「わ、怖そう」と感じていました。しかし、ワークでその方が第一声「(この3日間の)すべてがすごかった・・・」とおっしゃったことで、印象が一気に変わりました。その変わりぶりに我ながらびっくりしました。

その方は感慨深げに見え、その言葉はお腹の深いところからフーーっと出てきたもののように、私には感じられました。

その方が、その深い感慨に続けてこれまでの想いを言葉にされるのを聞きながら(とても感動的だったので詳しく書きたいのですが、秘密も守りたいのでガマンします)、私は自分がその方をどんどん好きになっていくのを感じていました。

不安・警戒→安心→好き、みたいな自分の心の変化を感じました。

あらためて、私は、自分で人に「勝手なキグルミ」を着せて怖がっているのだなあと感じました。

オープンダイアローグ界隈では、よく「専門性という鎧(を脱ぐ)」という表現がされます。これは、うまくいかない従来のモノロジカルな(対話的でない)支援の一因に「専門家を守る鎧としての専門性」があるのではないか、という自戒の表現なのだと思います。

この表現は、私が専門家(医師や看護師)に感じてきた「怒り」を正当化してくれてもいました(この「怒り」については前回までのレポートで言及しています)。

そういう「鎧」の弊害があるもの事実だと感じる半面、私はこのとき「専門家をやっている人に『鎧』を着せていたのは私ではないか」とも思うようになっていました。逆「裸の王様」みたいな。

だって、目の前の、いまこんなに好きになっている人にも「怖い人」というスーツを着せていたのですから。

そう考えながら、私はもう一つ、この3日間での印象深いエピソードを思い出していました。

初日だったでしょうか(忘れてしまった)、co-trainerとして来場していた森川すいめいさんが、休憩中に「竹内さん」と声をかけてくださったのです。

私はもちろん、すいめいさんのお顔を知っていました。だって有名人ですから。ご著書も読みました。

しかし、すいめいさんが私の顔を認識できるとは夢にも思っていませんでした。

確かに数年前、私はフェイスブックですいめいさんを一方的にフォローしようと思いました。

しかし、うっかり者の私は、それ用のボタンではなく友達申請のボタンを押してしまいました。私は「キモいことをしてしまった。。。」と超焦りました。

すいめいさんは、会ったことも話したこともない私からの謎の友達申請を承認してくださいました。

私は恥ずかしさのあまり、「いや違うんです!間違って友達申請しちゃっただけなんです!」という旨のメッセージを送りました(いま思うと、それもそれで何て失礼なんだろうと思います・・・)。

それに対しても、すいめいさんは笑って受け止めてくださいました。それが数年前のことです。一緒に本トレーニングに参加している妻はすいめいさんの講演会に行き、お名刺をいただいたことがあります。しかし、私は直接お会いしたことはなかったのです。

そんなすいめいさんが、私の顔をリアルで初めて見て、すぐに私の名前を呼んでくれたのです。

私は、そのことに衝撃を受けていました。私の名前を受講者名簿に見つけてググったりしたのだろうか、それとも何百人もいるだろうフェイスブックの「友だち」を、私みたいのも含めて全員把握しているのか・・・(何という気配り力だろう)。

私はその「衝撃」をリアルタイムでは受け止めることができませんでした。

その場で私は、すいめいさんを「有名人」扱いする一方で自分を「名もない一般人」と呼ぶという、たいへん卑屈なリアクションをしました。それは、すいめいさんからの好意を受け取らず、歩み寄ってくれた人を遠ざける行動でした。

私には「自分が素敵な人からの好意を向けられるはずがない/それには値しない」というネガティブな信念(スキーマ)があったのです。その信念とフィットするような行動を、私は自分でとりました。

これは12ステップの自助グループのテキストに「あるある」として書かれている不適応行動のひとつで、これまでの私の人生で幾度となく反復されてきた、おなじみのパターンです。

私はそのことがあった日の研修の時間中、ずっとモヤモヤし、「これではいけない」という思いを感じていました。そして、その日の最後にすいめいさんのところに行き、上記のことを伝えてお詫びしました。すいめいさんからの好意を受け取らず、遠ざけてしまったことを。

そのときから、私は「あの森川すいめい」だった人に脳内で勝手に着せていた「あの森川すいめいスーツ」を剥がし、少しずつ「すいめいさん」というふうに見られるようになりました。

第1クールのクロージングで、私は、目の前の男性を見、すいめいさんとのことを思い出していました。そして、会場の他の参加者を眺めました。まだ半分ほどの参加者に、私は「勝手なスーツ」を着せています。クロージングのダイアローグで、私はそんなことを話し、目の前の男性にも懺悔しました。

◆日常会話でも「いまここ」にいたい 

すいめいさんとの上記のエピソードを思うとき、私は「日常会話でも『いまここ』にステイできたらいいなあ」と感じます。

「いまここ」にいる、とは、上記のような「早期不適応スキーマ」にもとづく反応をせずに、目の前の人や出来事に対して、適応的に応答するということです。勝手なスーツを着せないことにもつながります。

ダイアローグの場ではできることもあるんですけど、まだまだ難しいです。

(帰宅後、このことを、私的に受けているコーチングのトピックにしました。)

◆「オープンダイアローグ」と名乗ろう

フィンランド人講師の講義を聴いているうちに、私は「私たちがやっていることって、けっこうオープンダイアローグになってるかも」と感じるようになりました。

それは、講師の用意してくれた英語の資料を見ながら彼/女らの話を聴いたためでもあります。

私たちの「相談室おうち」は医療機関でもなく24時間対応もしていないため、「私たちのやっていることは厳密にはオープンダイアローグとは言えない」という思いがずっとありました。オープンダイアローグを構成する「対話実践」「対話の哲学」「サービス提供システム」のうち、特に「サービス提供システム」の要件を私たちは満たしていないと考えてきたのです。

そのため、ホームページにも「オープンダイアローグの理念にできるだけ則り」とか「ダイアローグ形式で」とか、控えめに書いてきました。

しかし今回、現地の講師から英語資料で直接講義を受けたとき、「サービス提供システム」は数値などで厳密に要件定義されているわけではなく、「オープンダイアローグをサービスとして提供するときはこんなことを大事にしてね」という、それもまた思想のようなものではないかということが感じられました。

細かく書くと長くなりすぎるので、このテーマはこの辺で切り上げますが、私は「もうオープンダイアローグと名乗っちゃおう」と思うようになりました(怖いけど)。

トルニオと隣接するハパランダ(スウェーデン)にあるバスターミナル(2016年7月)

この日の印象に残ったフレーズ

Talk in a tentative manner

日本語文献では「ためらいがち」とか「自信なさげに」とか訳されている語がtentativeだということを初めて知りました。

断定的に解釈や意見を言うのではなく「~ということなんでしょうか…??」と謙虚に投げかけることの重要性が、オープンダイアローグやリフレクティングの解説書では強調されます。

「ためらいがち」という訳語でも言いたいことはなんとなく分かるんですけど、やっぱり英語から入ると印象が変わるなあと感じました。さらにフィンランド語が分かると、より「原典」に近づけるんでしょうか。これ、ダイアローグ自体にも通じることだと思います。昨日書いた「Listen what people say, not what people mean.」は「原典にあたれ」ということかも。

Look at the one you are talking to.

「お前がいま対話をしているその相手を見ろ」。基本なんだけど案外できていないこと。宙とか自分の内面とかパソコンやスマホの画面を見ていたりする。

if they have some comments on the reflection,

リフレクションのあとで、それに対してクライエント側にコメントがあればそれをもらいなさい、というくだり。これも英語で「comments」と言われて「あー」と思った。リフレクションの後で何をもらえばいいか、日本語では正直よく分かっていなかった。これまでは「感想」や「感じたこと」をもらってきた。「コメント」をもらうこともあった。どれもしっくりこなかった。講師が英語で「comments」というとき、何を意味しているのだろうか。あるいは「comments」をもらうにはどうしたらいいのだろうか。

傷ついた治療者

全体でダイアローグをしたときに出てきた言葉だっただろうか。私が昨夏から「サイレントプロシューマ」という語で呼んできたのは「傷ついた治療者」のことだよなあと思った。そうじゃない人なんかいるのか。その傷をかばっているのが「専門性という鎧」なんじゃないのか。かばうより、傷ついていることについてサイレントでいることを止め、語るべきなのではないのか。

専門性は脱ぎ着できる鎧ではなく、その人と一体化したマメやタコかもしれない

これは上述の5人のグループワークで私が口走った言葉。専門性を鎧として着ている人は私には「怖い」けど、それは鎧ではなくてその人の人生でできた「マメ」や「タコ」や「角質」かもしれないとも思ったのだ。医師であることや看護師であることは、その人の人生の大切な一部になっているかもしれない。それならそれで、そのストーリーは素敵だと思った。それが開示されると私は安心する。

We are trusting the process.

ダイアローグをしていると、ときに不穏な空気になります。私たち日本人はそれに対して本当に耐性が低いと感じます。ひとまずの安心を得るためにモノロジカルになってわかりやすくしようとしがち。そのときに、対話というプロセスを信じて、不穏な空気でいつづけることがとても重要と思います。

将棋に喩えると、羽生九段は「運命は勇者に微笑む」と言って未知の局面に踏み込み、一手一手指し続けます。そんな感じ。ダイアローグの場で勇者でありたい。

つづきます

今日も今日とて長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございます。

この記事までで第1ブロック第1クール(5/3-5)が終わりです。この直後、第2クールが始まることになります(5/10-12)。

なるべく間を置かず、フレッシュなうちに(私の人間が大きく変わらないうちに)続きを書きたいと思います。

関連記事を読む:オープンダイアローグ トレーニング基礎コースが始まった

次の記事を読む:オープンダイアローグトレーニングコース受講レポート④

前の記事を読む:オープンダイアローグトレーニングコース受講レポート②

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