2018年7月18日4 分

家族としてそばにいる練習

最終更新: 2020年5月26日

フィンランド・タンペレの公園にて(2017年6月)

こんにちは、ふゆひこです。今日も読んでいただいてありがとうございます。

今日は「家族」としての自分について書いてみようと思います。

「自分には何もできない」

私は「ひきこもり」や「アダルトチルドレン」の当事者性を持っていますが、同時に、アトピー当事者である妻(けいこ)の夫でもあります。

つまり、私はアトピー当事者の「家族」という立場でもあるのです。

しかしながら、実は私はアトピーについてほとんど何も知りません。

アトピーとアレルギーの区別もついていません。アトピーを抱えて生きる当事者の気持ちについては、なおのことです。

実は、先月から妻のアトピー症状が悪くなっています。ここ数日は膝の裏や背中・首筋などに広範に、かぶれのようなものが見られるようになっています。

妻は「かゆくてかゆくてつらい」と言います。

「自分が痒さばっかりになってしまって悲しい」と言います。

それを聞いたときに私の胸中に浮かんできたのは、「私には何もできない」という思いでした。

妻の感じている痒さを一緒に感じて分かち合うこともできないし、代わってあげることもできません。

「自分が痒さばっかりになってしまって悲しい」という表現には、とてつもない深い意味があるような気がするのですが、私の理解や感じ方はその深淵というか、35年以上にわたる妻のアトピー当事者としての歴史の重みに、まったく追いつくことができません。

私は、自分が妻に対して発した言葉やリアクションの、あまりの軽さに、ほんとうに情けなくなってしまいます。

もしかしたら、ひきこもり状態にある方の親御さん(特に、同居をされている方)は、日々、このような、やるせない・はがゆい思いと向き合っているのではないかと、今ごろになって思うのでした。

妻が「うれしい」と感じることを

今朝になり、いつもの瞑想の中で、私は自分に何かできることはないかというテーマで「脳内オープンダイアローグ」をやってみました。

(あらためて書くかもしれませんが、私はイメージの中で「脳内オープンダイアローグ」を開催することがあります。これは、当事者としての「わたし」や相談員としての「私」に加え、両親・同期で親友の相談員・フィリピンで知り合った友だちを招いて、6人くらいで「オープンダイアローグ」をするというものです。)

その中で、「子どものころ熱を出したときに親からしてもらって嬉しかったこと」を思い出してみるというアイデアが出ました。面白そうだったので、やってみることにしました。

りんごをすりおろしてくれたこと。

日中、居間に近い両親の部屋で、両親の布団で寝かせてくれたこと。

ときどき寝床まで様子を見に来てくれたこと。

病院について来てくれたこと。

他にも、熱を出したときとは関係ないことも思い出されました。出かけるのにおしゃれな服がないと嘆く小学生の私に、母が新品のジュビロ磐田のTシャツを出してくれたこと等…。

私は考えました。私が妻にしてあげられることで、妻が「うれしい」と感じることは何だろう。

ポイントは「妻がうれしいと感じること」なんだ。独りよがりな助言をすることや、何か新奇な治療法を紹介することなどではなく…。

いま、ひとまず私は、妻の皮膚の赤くかぶれている部分に保湿のためのクリームやオイルを「なでなで塗り」することを許されています(「なでなで塗り」というのは、けいこが買ってきたアトピーの本に書いてあった方法で、簡単に言うと、薬やクリームを塗るときに、とにかくやさしく塗るという心がけのようなものです)。

正直、それが妻の何をどれだけ楽にするのかしないのか、よく分かりません。

しかし私が妻から許可されたことはそれであり、それをすると妻はちょっとうれしそうでもあります。

私も、生まれてすぐから重度のアトピーを抱えている妻の人生の末席に入場できたような感じがして、ちょっと嬉しいです。

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