2019年3月19日8 分

回復における「ラスボス」の「倒し方」?

最終更新: 2020年5月26日

お名前は「ふたば」さんと言うそうです。

こないだ「回復にとっての『ラスボス』」という記事を書きました。

ラスボス」というのは『ドラゴンクエスト』などのゲームの言葉で、ラストのボス、つまり敵の親玉のことです。

生きづらさからの回復において立ち向かうべき最終的な相手=「ラスボス」とは何なのか。前回の記事では、それは「根底の恐怖」であるという結論に至りました。いちばん怖いもの、最も見たくない自分の「弱さ」と言ってもいいかもしれません。

リカバリー(回復)では、「根底の恐怖」を見つめるのが怖すぎるため、それ以外の「倒しやすい敵(生きづらさ)」ばかりに向き合ってしまうことがあります。重要なのは、それが本当に解決すべきことの「回避」になってしまうことがある、というこです。

「倒しやすい敵」でも倒せれば気持ちよく、ある程度の回復もするものですから、そればかりになってしまうことがあります。しかし、倒したら倒したでその「気持ちよさ」にも「耐性」がつき、他方で「根底の恐怖」は膨らんでいき、やがて「回復することへの依存」が生まれる、ということがあるようです。

そのような事態を避け、見える世界を真に晴れやかにするためには、やはり「ラスボス」と向き合う必要がありそうです。

前回の記事では、最近読んだ本(「トラウマちゃん本」)で紹介されている”ラスボス退治”の方法=「根底の恐怖に浸る」について書きました。

ものすごく簡単に言うと、これは「自分がいちばん恐れているもののことだけを頭の中で唱えるマインドフルネス」みたいなものです。いま私はこれを起きているあいだじゅうやっています(試しに)。

ただ個人的には、「ラスボス」の「倒し方」はこの他にもいくつかあるような気がしますので、今日はそれらを整理してみたいと思います。

「ラスボス」の「倒し方」?

ここまで、ラスボスの「倒し方」とか「向き合う」とか書いたりしてきました。

しかし、個人的には、「ラスボス」は必ずしも倒さなくてはいけないわけではないと思います。

また、そもそも「ラスボス」を「敵」と考える必要すらないような気もしています。

そんなことを頭の隅に感じながら、以下「ラスボス」の「倒し方」について分類してみます。

「向き合う」系:プロセス指向心理学・マインドフルネス・「トラウマちゃん本」・ACTなど

いちばんオーソドックスな対処法が、この「向き合う」系です。先に書いた「トラウマちゃん本」の「浸る」という方法も、私の中ではここに分類されます。

以前の記事で紹介した「プロセス指向心理学」も、見たくないもの(2次プロセス)と積極的に対話してそのメッセージを受け取るという考え方で、私の中では「向き合う」系にあたります。

また、これも以前紹介しましたが「アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)」でも、「ラスボス」(と言う表現はとりませんが)を「アクセプトする=その存在を受け容れる」ことを、最も重要なステップの一つとしています。

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これらに共通するのは、「怖いから見ない」とか「見たくないから別のものを見る」とかいうこと(回避や否認)を止めて、「ラスボス」をちゃんと見てみようとするところです。

ちなみに、これらの違いは「向き合」った後の行動です。マインドフルネスや「トラウマちゃん本」では向き合って終了です(ひたすら向き合い続けます)。プロセス指向心理学ではラスボスからメッセージを受け取ろうとし、ACTではラスボスと向き合いながら、並行して自分の信念に「コミット」して、やりたいことをやります。

「物語の設定を書き換える」系:オープンダイアローグ

「ラスボス」を生み出した存在と話して「ラスボス」という設定を変更してもらう、という手があります。

あるいは、「ラスボス」を生み出した存在と話しているうちに、「ラスボス」という設定がいつの間にか変わっている、ということがあります。

「設定を変える」と書きましたが、原作者と話しているうちに「そもそも『ラスボス』という設定ではなかったということが判明する」こともあります。こちらがそう思い込んでいただけ、みたいな。

私は、私の愛する「オープンダイアローグ」という哲学・方法に、このような「書き換え」の力があると思います。

私のような「生きづらい系アダルトチルドレン派」の人にとって、「ラスボス(=生きづらさ=根底の恐怖)」を作り出した人は「親」であることが多いです。

私たちは、主観的には「親によって生み出された『ラスボス』のいる世界で戦い、生き延びようとしている主人公」みたいな設定の物語を生きていたりします。「ラスボス」を倒すとクリア、みたいなドラクエ人生。「親」そのものが倒すべき「ラスボス」に見えることもあるでしょう。

このとき、親と一堂に会して「オープンダイアローグ」をすると、「親」は「ラスボス」(私の信じる物語の中のキャラクター)というよりはむしろ、その外側にいる存在として立ち現れてきます。言うなれば堀井雄二(ドラクエの原作者)として私たちの前に現れるのです。

そして私たちは、「いやー、あの ”ラスボス” はそういう意図で作ったキャラじゃなかったんだよー、ごめんごめん。そっかー、そんな風に見えてたのかー」みたいな、原作者の側の物語(私たちから見ると”裏設定”にあたる)に触れることになります。「あのラスボスは倒さなくてもクリアできるんだよ-」みたいなことも明らかにされるかもしれません。

いずれにせよ、「原作者」の語りによって、私たちの側から見た物語も変わっていくことになるでしょう(哲学的には「脱構築」みたいな話かもしれません)。

「オープンダイアローグ」のことを書くと抽象的になるので、個人的に分かりやすい表現をもうひとつ。「書き換える」系とは、要するに「呪いをかけた魔法使い本人に呪いを解いてもらうこと」だと思います。

きっと、それが有効なことは生きづらさの「当事者」も無意識的に分かっているのでしょう。だから、親に対して「謝れ」とか「愛している証拠を見せろ」とか言って迫るのだと思います。

「親」という「魔法使い」からの謝罪や愛の(再)告白が、自分にかけられた呪い(根底の恐怖)を解くためのいちばん端的な方法である、という直感が私(たち)にはあります。

このやり方も悪くはありません。ただ、これだと「呪いをかけていた/かけられていた」という物語が確定してしまうことになるかもしれません。

「オープンダイアローグ」の良いのは、例えば「そもそも呪いなんかかけられていなかった」という新設定が「発見」される可能性に開かれていることだと、私は思います。

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「ギャグ漫画化」する:当事者研究・オープンダイアローグ

これは「設定を書き換える」系のひとつに分類されるかもしれません。「ラスボス」が「倒すべき敵」であるという「設定(私たちの主観的な物語)」はそのままに、「ラスボス」をギャグキャラ化するという方法です。

分かりやすい例が、『ドラゴンボール』に『Dr.スランプ』の「アラレちゃん」が登場したときです。

『ドラゴンボール』は中盤以降いちおうシリアス路線なので、キャラクターが死んだり地球が滅亡の危機に陥ったりします。キャラの強さも「戦闘力」として数値化され、「強い/弱い」に関するキャラ設定がシビアに決められています。

しかし、同じ作者のギャグ漫画のキャラである「アラレちゃん」がときどき『ドラゴンボール』に登場するときは、『ドラゴンボール』もギャグ漫画になってしまいます。

アラレちゃんは「戦闘力」に関する設定を無視し、『ドラゴンボール』の最強クラスのキャラクターの攻撃も笑顔で跳ね返します。『ドラゴンボール』のキャラ達は言います。「ギャグ漫画のキャラには勝てん…」。

私は、これをリアルでやっているのが「浦河べてるの家」発祥の「当事者研究」だと思います。

あらためて書くまでもありませんが、「当事者研究」は従来語るべからざる(語らしむべからざる)ものであり端的に医学的治療の対象でしかなかった精神病の妄想や幻聴に、「幻聴さん」と名前を付けて歓迎したり、患者が自身に「自己病名」を付けたりする ”回復” 法です。

「さん」付けで呼ばれたり、患者自身によるユニークな呼称を与えられたりした「病気」はそれまでの重苦しい性格から一転、「ビョーキ」というキャラになったかのようです。

アラレちゃんが登場してギャグ漫画化した『ドラゴンボール』には、もはや倒すべき絶対的な悪やクリアすべき一直線の物語がなくなるように、「ビョーキ」になった「病気」も単純に「治療」して無くすべきものではなくなります(「べてるの家」の人たちは「治りませんように」とすら言います)。

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このやり方であれば、「ラスボス」は「敵」という設定がそのままであったとしても単純に「倒す」べき相手ではなくなります(『Dr.スランプ』に出てくるエイリアン、ニコチャン大王のような感じになるイメージ)。これまでの私たちのシリアスな回復努力の物語は、一転、「ゆかいな仲間たち」との日常へと変わるのです。

なお「当事者研究」は「オープンダイアローグ」との共通性が指摘されていますが、私は「オープンダイアローグ」でも「ラスボス」が「ギャグキャラ化」することはあり得ると思います。

まとめ

長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございます。

ここまで、根本的な生きづらさ(根底の恐怖)を「ラスボス」と呼び、その「倒し方」について分類してきました。

「向き合う」は大前提。できれば「オープンダイアローグ」で設定を書き換えたり、ギャグキャラ化したりする。

つまり「ラスボス」を「倒す」必要はなかったのです。

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