2018年8月1日5 分

「聴く」練習と「語る」喜び

最終更新: 2020年5月26日

昨日は横浜まで車を走らせ、傾聴の勉強に言ってきました。

特定非営利活動法人アーモンドコミュニティネットワークさん主催の、主に不登校やひきこもり状態にある・あった方のご家族のための傾聴の勉強会です。現役や退職後の教員の方も数名見えていました。

講師であり理事長でもある水谷裕子さんとは、昨年末の「アンティシペーションダイアローグ」関係の研修でたまたま隣の席になり、グループワークをご一緒させていただきました。

その際、水谷さんが「傾聴」に重きをおいたひきこもり・不登校支援をしているというお話を聞きました。資料もいただき、ずっと気になっていました。

そのとき思ったのは「ああ、日本には”傾聴”があった!」ということでした。

私は常々、どうしたら日本で「オープンダイアローグ」や「アンティシペーションダイアローグ」、あるいはその中核となる「ダイアローグ」の精神だけでも普及できるのか、と考えています。

考えてみれば「オープンダイアローグ」の核心は「ダイアローグ=対話」です。

「オープンダイアローグ」は「対話」というものを、精神科医療の場面で効果的に実践できるよう最適化したもの、と言えるかもしれません。

狭義の「オープンダイアローグ」はフィンランドの医療現場に合わせて発展しました。それゆえに日本の医療現場では実践しづらい面もあります。また、医療現場以外の場面で厳密な「オープンダイアローグ」を実行することも、ちょっと目的が違ってきてしまいます。

医療現場ではない場面で「ダイアローグ」を普及し実践するにはどうしたらいいのか、という問いに、「傾聴」が答えを与えてくれたような気がしました。

というのは、「ダイアローグ」の半分以上は傾聴でできているからです。「ダイアローグ」は傾聴のし合いっこのようなものです。

そして「傾聴」はすでに日本の地域福祉の世界でかなりポピュラーな存在です。(「傾聴ボランティア」って聞いたことありませんか?)

水谷さんとの出会いは、日本に「ダイアローグ(対話実践)」を根付かせるには「傾聴」をプラットフォームにするのがいいのではないかと、私に気づかせてくれたのです。

そんなわけで、私は念願の勉強会@横浜に参加したのでした。

「聴く」ことの難しさと、「語る」ことの喜び

勉強会では、「聴く」ことと「語る」ことの両方を体験しました。

「聴く」側になった参加者は、8分ほどのあいだ、ペアになった相手が「語る」のに耳を傾けます。

「聴く」側を体験した参加者の感想では「意見や助言を言わずに耳を傾け続けることの難しさを感じた」との声が多く聞かれました。

ふだんの「会話」(≠対話)の中で、いかに私たちが「相手の言いたいこと」よりも「自分の言いたいこと」を言ってしまっているかが分かります。

職業柄、私は「聴く」ことには慣れています。しかし、それは相手を分析したり支援のために必要な情報を収集したりすることを目的とした「聴取」でした。

ですので、「ただ聴く」という体験の中で、私は、知りたい情報を相手が話すように仕向ける誘導的な相づちや応答をしたい自分に気づき、それを控えることに一生懸命になりました。

次に、「聴く」側だった参加者が「語る」側に回ります(お題は、傾聴の勉強会に参加するに至った経緯や動機でした)。

このとき、私は自分の思っていることをペラペラと語り続けました。

その気持ちいいこととイッタラ!!(フィンランドギャグ)

繰り返しになりますが、仕事柄、私は人の話ばかり聴いてきました。他方で、自分の話をする機会はあまりありませんでした。それが自分自身の生きづらさやリカバリーのことであれば、なおさらです。

私は「ああ、語るって、聴いてもらうって、こんなに気持ちがいいんだ!元気が出るんだ!」と驚きました。

もちろんそれは、私の相手になってくれた聴き手の聴き方や、存在そのものによるところが大きいのですが。

「聴く」と「聞く」は異なる、と言われます。

私たちは普段の暮らしの中で、語っているようで、案外、語っていません。

聞いてもらっているようで、案外、聴いてもらってもいないのだと思います。

それは、先に書いた「聴く」練習の中で、私たちが相手の「語り」に対して自分の意見や助言を返しがちであった、ということからも分かります。

私たちの日常会話は、お互いが「自分の言いたいこと」を発しているだけかもしれない。

こちらが投げたボールをキャッチしてもらえて初めて、それは「キャッチボール」になります。

グローブを持たない二人が、それぞれ手にしたボールを互いに向かって投げ合うのを「キャッチボール」とは呼びませんよね。

「キャッチ」してもらえなかった「語り」は、無視(スルー)されたのと同じです。「なかったこと」にされたようなものです。

その「語り」の中にあったであろう「気持ち」は、浄化もされず成仏もしません。反対に、もやもやとした不満や不全感、あるいは悲しみとして心に積み重なっていきます。

「言葉にとって、応答されないことほど恐ろしいことはない」とは、ある文学者の言葉です。

私たちがこれほど「聴くこと」に難を抱えているということは、当の私たち自身もまた聴いてもらえていないということになります。

私たちは「聴いてもらえていない気持ち」を抱えたまま、「聴いて聴いて」という要求にさらされているとも言えます。

語られぬまま・聴かれぬままの気持ちを抱えたまま人の話を聴くというのは、かなりしんどいのではないでしょうか。

私たちは傾聴の練習の前に「語ること≒聴いてもらうこと」の喜びを知る必要があるのかもしれません。

(追記:2018年8月から名古屋でも「対話の勉強会」を始めました。ぜひご参加ください。)

今日も聴いてくれてありがとうございます。

明日もうれしいこと楽しいこといっぱいあるといいですね!

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