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(5位~1位)今年300冊読んだ私の読書体験10選

更新日:2020年5月26日


読書

こんにちは。もう「みそか」ですね。この記事を何とか今年中に書いてしまいたくて、大掃除の合間に頑張ってみました。


それでは、今年300冊くらい読んだ中から選ぶ読書体験10選、ベスト5の発表です!




5位 病院で人としての尊厳を保つ方法が分かった

――井上由季子『大切な人が病気になったとき、何ができるか考えてみました』(筑摩書房, 2017)



今年の始めごろ愛媛県の宇和島市に長期滞在していたとき、現地の図書館で目に入ってきたのがこの本。


3年前に妻が大病をしたこともあり、私もどこかで本書のタイトルのようなことを考えようとしていたのかもしれません。


この本が私に教えてくれたのは、病院にいても人間として尊厳を保つ方法でした。


このことのインパクトは、私にとってとても大きくて。


私はずっと、「どうして人は病院にいると”人間扱い”されないんだろう?」と感じていました(医療関係の方すみません…)。


原体験は、母方祖母を病院で看取ったことでした。


当時20歳の私の目に映った祖母の最期の印象は「いつのまにか」「あれよあれよという間に」でした。


私たちがお医者さんや看護師さんの邪魔をしないようにしていたら、祖母はいつの間にか弱っていき、意識レベルが下がり、そのまま亡くなりました。


祖母がどういうふうに自分の最期を迎えたかったのか、私はよくわかりませんでした。


30代になって妻の母と祖母を在宅で看取るまで、私にとって「死」は「病院で何となく迎えるもの」でした。


その後26歳で入った精神科医療の世界については言うまでもありませんが(関係者のみなさんすみません…)、29歳で気胸になり、自分が初めて入院を体験したときも、ショックなことが続きました。


病院では人間は「患者」という客体になり、「治療」の名のもとに有無を言わさず管理や操作をされるのだな…。


それが、これまでの人生を通じての私の「病院体験」でした。


哲学的な表現になりますが、客体というのは要するに「モノ」です。人ではありません。


モノというのは一般的な存在です。対して人は個別的で、固有の考え方や価値観を持っています。


尊厳というのは、その固有性に宿ります。


病院では、「私がどういう人間か」ということは顧慮されず、操作可能な「モノ」としての私(身体)が焦点となります。


前置きが長くなりましたが、本書にはこのような問題を乗り越える2つの試みが紹介されていました。


ひとつは、その人がどういう人物であるか(固有性を持つか)を徹底的に医療者側へ伝え続けるという患者家族の試み。しかも明るく。


その人が「娑婆」でどのように愛され、大切にされている存在であるかが分かれば、医療者側も患者をモノ扱いしない(尊厳を見出す=”人間”扱いする)のだと分かりました。


もうひとつは、「四国こどもとおとなの医療センター」を始めとする、病院にアートの力を持ち込む試み。


病院という場にアートという「人間的なもの」があることは、患者も人間であるとか、医療は尊厳のある人間を相手にする活動なのだとかいうことを思い出させてくれます。


春先、四国を旅していた私と妻は、四国こどもとおとなの医療センターにちょっと忍び込んできました。


土日だったので入れる場所が限られていましたが、一般的な病院とはどこか「空気」が異なるのを感じました。アートの力の片鱗を感じることができたのかもしれません。


大病したらまた四国に引っ越そうかなーと、ちょっと思いました。




4位 ダイアローグは「オープンダイアローグ」以前から日本にあった!

――泉谷閑示さんの著作たち




図書館で「対話」をキーワードに本を漁っていたときに出会いました。


泉谷閑示さんは精神科医で、「対話」による精神療法をずっと実践されているとのことでした。


「対話」の難しいところは、何が「対話」なのか(単なる会話との違いは何なのか)という定義が曖昧なところなのですが、泉谷さんの書かれていることを読むと、いま精神科医療の世界で急速に注目が集まっている「オープンダイアローグ」の哲学的部分とほぼ同じことをおっしゃっていることが分かります。


オープンダイアローグが日本に紹介され始めたのがここ2~3年である一方、例えば『「普通がいい」という病』は2006年の著作ですから、私は「こんな方が日本にいたのか!」と衝撃を受けました。


さらに面白かったのは、泉谷さんが「対話」(の難しさ)を日本の近代化論と絡めている点です。


泉谷さんが「対話」というとき、そこには、その主体としての「近代的個人」が前提とされています。


日本で「対話」が難しいのは日本人が真の意味での「近代的個人」になりきれていないから、というのが泉谷さんの考えで、私はそれに非常に納得します。


例えば私たち日本人は、個人としての自分の考えより「普通」や「世間」の方を優先したり、「忖度」したりしますよね。息を吸うように自然に。


これは善悪の問題ではありません。良くも悪くもそれが「日本」です。きっと近代以前の日本にはそれが合っていたのでしょう。


日本人が苦しいのは、現在も日本人としての昔ながらの自然な感性をベースにして生活しているにも関わらず、表向きには「近代的個人」を前提とする西洋型社会システムを採用していることになっているからです。


運転免許がないのに自動車を運転しているようなものです。


前近代的なメンタリティのまま社会システムだけ近代化してしまったことが日本人を悩ませている。親子関係の問題や「ひきこもり」もそこから来ている、というのが泉谷さんの見方です。私も完全に同意します。


これは、古くは夏目漱石がロンドン留学中にノイローゼになったのと同じ問題で、泉谷さんもフランス在住期に同じ問題に悩まれたようです。


(余談ですが、義父の本棚にあったマンガにも同じ主題が描かれていました。)



私も海外を旅していたときに同じようなことを考えていました(奇しくも『「私」を生きるための言葉』の、その夏目漱石のくだりを私が読んだ場所はロンドンのハイドパークでした)。


なお、泉谷さんの実践する対話的な精神療法はマンツーマン(個人精神療法)です。


一方で、「オープンダイアローグ」の最大の特徴は「ネットワークモデル」であることです。


「ネットワークモデル」は支援者とのマンツーマンではなく、本人がそこで生活を営むところの、実際の人間関係の中で(家族や友人等とともに)「対話」をすることを重視します。


私見では、個人精神療法で「対話」を行うことは近代的主体として覚醒することを促すように思われます。それは私の言葉でいうと「minä=わたしになる」ことであり、自分の人生を取り戻す=「リカバリー」することでもあります(「リカバリー」自体、近代的自我を必要とする西洋的なコンセプトです)。


それは個人的には大好きな道なのですが、支援者として人に勧めることには慎重でありたいと思います。


なぜなら、現在の問題の原因を、その人が「主体的」でないことに帰し、責めてしまう可能性があるからです。それは対話的な振る舞いではありません。私は「オープンダイアローグ」の方が「安全」であるような気がしています。


(関連記事:minä(ミーナ)になる)



3位 共依存への端的な戒め

――さわぐちけいすけ『妻は他人』(KADOKAWA, 2017)



私はアダルトチルドレンで共依存なのですが、こんなに端的な戒めがあるだろうか、と衝撃を受けました。


妻は他人であること、人もすべて他人であること、これは「対話」を成立させる大前提の認識であります。


私にとってはタイトルが全てなので(ごめんなさい)、背表紙がいつでも目につくように棚に挿してあります(いつかこんなマンガを描きたいというのはあります)。




2位 支援者のいない生活場面でもダイアローグをできる方法があった

――「非暴力的コミュニケーション」との出会い



夏の終わりごろ、Facebook経由で「Non-Violent Communication(NVC:非暴力的コミュニケーション)」というものを知り、大阪のワークショップに出かけました。


そのときのテキストが『「なんでわかってくれないの!」と思ったときに読む本」(右側の黄色い本)です。これはNVCについての一般向け解説書で、とても分かりやすかったです。


大阪から戻ってすぐ、図書館で原典の『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』を借りて読みました。


NVCはご家庭で「対話」を実践する方法としてとても分かりやすいと感じます。


私の大好きな「オープンダイアローグ」には、支援者がいない場面で自分たちだけでやりづらい、という難点があります。


しかし、考えてみると、生活というのは「支援者がいない場面」がほとんどすべてなんですよね。


例えば、妻と気まずくなっているときにいちいち支援者を読んでオープンダイアローグするわけにはいきません。


これは私が「ひきこもり」のご家族からも指摘されていたことでした。「息子が家から出られないのにどうやってオープンダイアローグするのか」と。


そんなとき、NVCが役に立つと私は思います。


NVCというのは、要するに「日常生活で対話的であるための方法」です。


間に入る支援者のいない一対一の場面でも、相手も自分も傷つけずに、素直に話をするための方法がNVCなのだと私は思います(「アサーション」に近いですが、私はアサーションよりもNVCの方が好きです)。


支援者の入れない日常場面であっても、相手に向き合う姿勢や言葉がひとまず「対話的である」(非暴力的である)だけで、かなり治療的な効果があると、私は思います。


いずれにせよ、泉谷さんの著作について同様、NVCも、人に勧めるというよりは自分自身が対話的であるために取り組むようにしています。


(と言いつつ勧めているのですが…。)




1位 子ども時代を取り戻す

――ズッコケ三人組シリーズ





5位から2位まで難しい話が続きましたが、一転、なんと2018年の栄光の第1位は「ズッコケ三人組シリーズ」でした!


私は小学生のころ「ズッコケ三人組シリーズ」が大好きだったんです。


しかし、あるとき読書感想文を「ズッコケ」で書こうとしたら、母から「えぇ~」と止められたんですね。


母にとって「ズッコケ」は、文学性の低い、低俗なものであるようでした(ちなみに母はその読書感想文コンクールの審査員をしていました)。


私は自分の好きなものがけなされたようで(しかも実の母に)、とてもショックでした。


しかし、母のよいというものが私にとっても素晴らしいものだったので、いつしか私は「ズッコケ三人組」を読むのを止めてしまいました。


それが、時が経ち、今年はなぜだか無性に「ズッコケ三人組」を読みたくなったんです。


私は、小学生当時好きだった記憶のある「株式会社」「山賊修行中」「探検隊」「時間漂流記」などを借りて次々に読みました。


そのなんと素晴らしいこと!


ストーリーのおもしろさもさることながら、文章のリズムの美しさに驚きました。音読が想定されたリズム。超読みやすい。


子どものために、世の中の仕組みが少しだけ垣間見えるような設定で、ドキドキのエンターテインメントを、美しい文章に乗せて届けてくれる。


すげー。児童文学すげー。


私は、絵本読み聞かせサークルの活動を一生懸命して読書感想文コンクールの審査員にまでなった母がこの素晴らしさを分からなかったのかと、ちょっと悲しくなりましたが、大人になったから分かる「ズッコケ三人組」の魅力に感激し、当時まだ刊行されていなかった巻も次々と読みました。


私が激動の思春期やら青年期を送っている間にハチベエはハワイに行ったりテレビに出たりしていたんだな…と同窓会に出ているような気分になりました。


ズッコケ三人組という懐かしい友だちに再会した、それが今年の私の最高の読書体験でした。



*****


というわけで、2018年の読書体験10選をお送りしました。お付き合いいただいてありがとうございました!


ちなみに本記事がこのブログの記念すべき50記事目です٩(๑´3`๑)۶


数は少ないですけど、読んでいただいている方がいてくれるので続けられています。ありがとうございます。


また来年もちょこちょこ書いていきますので、覗きに来てくださいね!


来年も楽しいことうれしいこといっぱいあるといいですね!




関連カテゴリ:読書録2019




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