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嫌いな自分なんて存在しなかったという話

更新日:2020年5月26日


ヘルシンキ郊外の精神科病院跡地にて
2017年夏、ヘルシンキ郊外の精神科病院跡地にて(妻撮影)

今年は300冊くらい本を読みました。


印象深かった一冊に『「嫌いな自分」を隠そうとしてはいけない』があります。



ちょっと古い本ですが、「嫌いな自分」も含めた自己受容・自己肯定の方法が具体的に書かれています。著者もまた「生きづらさ」の当事者であるようです。


1冊通じてワークブックとして使えるようにもなっています。


私はすべてのワークをやってみました。「嫌いな自分」を受け容れられるように紙に書いて寝室の壁に貼ったり、反対に「好きな自分」もたくさんあることを認めるために、それらも書き出したりしました。


それが今年の夏頃のことです。


その後、私は「アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)」に出会いました。



これもワークブックになっていて、書籍代だけ払えば取り組むことができます(私は図書館で借りたので実質ゼロ円です)。


「ACT」もまた「嫌いな自分」を「受け容れる」タイプのリカバリー方法です。


最初の本が「嫌いな自分」を「そんな自分もいていいんだよ」というふうに受け容れるとすれば、ACTは「嫌いだな―」という感じをマインドフルに観察しながらそのまま付き合う、みたいな感じです。


当時の私には両方とも大きな効果がありました。


気持ちが楽になったり、不安や否認にもとづいてネガティブな行動をとることが減ったりしました。


他方で、私には何か不全感のようなものも残されていました。


何かすっきりしない。


その感じを解消するための考え方を提供してくれたのが、ちょっとスピリチュアルな方法「ホ・オポノポノ」でした(スピリチュアルが苦手な方ごめんなさい)。



「自分に謝る」ことをしていなかった


「ホ・オポノポノ」はハワイ原住民に伝わる問題解決法とのことです。


なお、私は自分のために使うものに関しては「役に立てば何でもいい」派なので、「ホ・オポノポノ」の背景についてはあんまり詳しく知りません(すみません・・・。)


というわけで、以下は私の「超訳」になります。


ホ・オポノポノでは、何か「ひっかかること」があるときに、こう考えるそうです。


「むかしおんなじようなことなかった?」


要は、当時の悲しみなり怒りなりをそのときに処理していないがために、現在の似たようなシチュエーションで同じような感情が再現されているというのです。


ホ・オポノポノの効果に科学的なエビデンスは(おそらく)ないでしょうが、上記のような説明(世界観)自体は「EMDR」や「スキーマ療法」のそれと基本的に同じだと思います。


ホ・オポノポノがEMDRやスキーマ療法、ACT等と異なるのは、その感情の起源である(と考える)過去のエピソードについて、「自分自身に謝る」という点です。


他の科学的な心理療法では、自分のことを、自分自身に対する加害者として考えることはしないような気がします。


「自分」はたいてい「被害者」で、守られたり再養育されたりするべき存在です。


他方でホ・オポノポノでは、自分に「ごめんなさい、ゆるしてください」と言います。


このことが、私にはしっくり来たのです。


何故かというと、「嫌いな自分」がいるということは、自分が自分を嫌っているということだからです。


自分に嫌われた自分は、自分に対して怒ったり悲しんだりしていて当然です。


その「自分自身への怒りや悲しみ」を処理していなかったことが、私の「すっきりしない感じ」の原因だったのではないかと思ったのです。



「自分自身」という怒りの矛先


では、私はどうして自分自身を嫌うようになったのでしょうか。


それは、誰か影響力の強い人に嫌われたからです。


そして、その人に迎合したからです。


私たちには過去にトラウマティックなエピソードがあります。


それはたいてい、他者から強く否定されたという体験です(ここでいう「他者」は他人のみならず、身体、病気、社会、世界、災害や事故も含みます)。


心理療法やセラピーでは、それらのエピソードや、そこで形成されてしまったネガティブな思い込みを、別の肯定的なイメージや信念で上書きします。


しかし、これでは話半分だったのです。


過去、私は他者からの否定があまりに衝撃的で怖かったものだから、彼らに迎合して、彼らと一緒に自分自身を否定し続けてしまっていたのです。


「私のどこそこが嫌い」「私はダメ」というのは、もともと私自身の価値観ではないのです。


私を否定した誰かの価値観なのです。


しかし、私はそれに同意して、彼らと一緒になって自分に石を投げていたわけです。


「私が彼らにされたこと」のショックやトラウマは、EMDR等の心理的なセラピーでどうにかなります。


しかし、「彼らに迎合して私が私にしてしまっていたこと」の後始末は、いまだなされぬままだったのです。


「後始末」というのは、自分自身への謝罪と自分自身への赦(ゆる)し、そして自分自身との和解です。


ホ・オポノポノの「自分に謝る」という枠組みから、私はそのことに気がつきました。


「ずっとあなたのことを嫌ってダメ出ししてごめんなさい。ゆるしてください。」


心の中で、私は小さな「わたし」に言いました。


私は、(小さな)「わたし」が(謝った)私に対してものすごく怒っているのを感じました。


その怒りや悲しみを感じきったあと、ホ・オポノポノの枠組みにしたがって、私は小さな「わたし」に感謝を伝えました。


「あなたが怒っていたのを教えてくれてありがとう。」


「私という、最も近しいはずの、いちばんの味方でなければならないはずの存在に嫌われながらも、がんばって生き延びてきてくれてありがとう。」


「大好きだよ。」


「わたし」たちはハグをしました。


小さな「わたし」は私に言いました。


「そっちこそ、生き延びるために一生懸命手を尽くしてくれてありがとう。」


私は「嫌いな自分」などいなかったことに気がつきました。


もちろん、私にはたくさんの「短所」はありますけれど、それはもともと「好き」とか「嫌い」とかいう価値を背負ったものではなかったのです。そういうものがあるのは、単なる事実だったのです。


過去に、突然殴られたり人前で罵倒されたりしたものですから、「ああ、私はダメなんだ」と誤学習し、「嫌い」になってしまいましたけど。


今年は自己受容のために「嫌いな自分」を「隠す」→「隠さない」→「受け容れる」というふうに取り組んできました。


そして、「そもそも『嫌いな自分』などいない」というファイナルアンサーにたどり着いたような気がしています。


*****


今日も読んでいただいてありがとうございます。


明日も楽しいことうれしいこといっぱいあるといいですね!



(羽生竜王の体力が回復しますように)




次の記事を読む:ありがとう羽生九段


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