top of page

「本人」になろう

更新日:2020年5月26日


本人とは誰か

親御さんからの相談の多くが「あの子のことが心配で」という表現をとります。


従来の相談支援では、最初に相談に来た人が誰であれ、その話の中に「病気の人」「障害のある人」「問題のある人」として登場した人が「本人」とされます。


例えば、「あの子のことが心配で」の「あの子」が仮にひきこもり状態にあり、親御さんが相談員にその話をした場合、「あの子」が「本人」となり、親御さんは「ご家族」と呼ばれるのです。


相談の場に「あの子」が不在でも、そうなります。


「本人」が困っていなくても、そうなります。


「本人」に相談機関を利用する意志がなくてもです。


さらに、これらのような場合、そこにいない「本人」のことを、「本人」抜きで話すことになります。「本人」抜きで決められてしまう「本人のこと」もたくさんあります。


しかし、自分のいないところで決められたことに気分よく従う人などいるでしょうか


困ってやって来た親御さん。


困っているか分からないお子さん。


私は本当の「本人」って誰なんだろうとずっとフシギに思っていました。



誰が何に困っているのか


「本人」つまり「あの子」が困っていなかったり、相談場面に現れていなかったりする場合、「困っている」のは誰なのでしょうか。


「困っている」というのは、つまり、「相談に行かなきゃ」と思うということです。


ということは、困っているのは「相談に来た人」ではないでしょうか。


つまり、親御さん自身です。


「相談に来た人」、つまり親御さんは、「あの子」のことが心配で困っているんですよね。


ということは、親御さんがその「心配」の持ち主=困っている本人なのではないでしょうか。


「病気を抱える子との関わり方に悩む親としてのわたし」。


「ひきこもり状態にある子の将来を案じる親としてのわたし」。


親御さん自身のそういう「わたし」が「本人」なのではないでしょうか。


課題の分離」という言葉があります。アドラー心理学の用語です。


その「困りごと」が誰の課題であるかは「そのことの結果を誰が引き受けるか」を考えれば分かるといいます。


「病気」は「あの子」の課題ですね。


「ひきこもり状態」もそうです。


「心配」はどうでしょうか。心配は親御さんの心の中にありますから、これは親御さんの課題ですね。


私は、従来の相談を続けても事態が好転しないときは、いちど「課題の分離」について振り返ってみるのがいいと思います。




自分の課題に正直に


相談やカウンセリングを続けても続けても事態が袋小路に陥ってしまうことがあります。その多くは以下のようなときではないかと、私は考えます。


自分の課題を、他人の課題であるかのようにとりあげているとき。


他人の課題を、代わりに解決しようとしているとき。


自分の課題を、他人を変えることで解決しようとしているとき。


相談の場にいない「あの子」を「本人」にして行う相談は、これらすべてにあてはまるかもしれませんね。


「あの子」がちゃんと作業所に行けば(私の心配が解決するのに)。


「あの子」が部屋から出てきてくれれば(以下同文)。


「あの子のため」という表現が使われることがあります。


これ、ほんとうは誰のためなのでしょうか。


親御さんが解決すべき課題は、親御さん自身の「心配」という課題だけです。


自分の課題を解決するのは、自分の心の平安のためです。動機は利己的なのです。


利己的なのは悪いことではありません。人間みんなそうです。私も呆れるくらい利己的です。


しかし、動機が利己的であるのを「あの子のため」と言って「否認」するのは、「あの子」を傷つけることになるので、お勧めできません。


また、「病気」や「ひきこもり状態」は「あの子」の課題ですから、「あの子」がそれをどうにかしたいと思うまでどうにもなりません。


他者を強制的に変えることはできないのです。


強制的に変えてしまうと、それは、相手にとっては「モノ扱いされた」という体験になってしまいます。信頼関係が損なわれます。


このとき、「利己的であってもいい」ということが希望になります。


「あの子」に変わってもらうことで自分の「心配」という「困りごと」を解決したいのだったら、それを「あの子」に正直に伝えればよいのです。


そういうふうに、自分自身を変えることなら、人間にはできます(頑張れば)。


もちろん、「あの子」には「断る権利」があるのですが(それが「他者」であるということです)。


ともあれ「わたしの心配を解消するのに力を貸してほしい」と「お願いする」ところから、すべては始まるのではないでしょうか。


「助けてください」「力を貸してほしい」と、お願いしてみることです。


今までと立場が正反対というところがミソです。



「心配」の裏には「願い」が


つい「利己的」と書いてしまいましたが、親が子ども心配するのは子どもの幸福を願っているからですよね。


だから、親御さんの「心配」を解決するという課題は、「子どもに幸せになってほしい」という親御さんの「願い」を実現する、という課題でもあります(もちろん、親御さん自身の


親御さんがそのような「願い」と「課題」を持っていることを、お子さんという最大のキーパーソンに伝え、実現に向けた「協力を求める」ことも、できるかもしれませんね。


もちろん、お子さんにはノーという権利があります。その場合、その理由に耳を傾けてみましょう。そこから「対話」が始まります。


だから、これは「対話」をさせてほしい、というお願いとも言えます。


愛する人を「対話」へお誘いすること。


それが、自分の課題の「本人」としての私たちが、私たち自身のためにできることではないでしょうか。





次の記事を読む:2019読書録 #5-#7


前の記事を読む:からだをさがそう


閲覧数:123回0件のコメント

Comments


bottom of page