こんにちは、ふゆひこです。今日も読んでいただいてありがとうございます。
今日は「語ること」について書きたいと思います。
私はこのごろ、これまでのことを「語りたい」と思う気持ちが強くなっているのを感じています。
困難な状況にあった人たちが自身のことを公に語っているのを目の当たりにして、うらやましいと感じるようになりました。
ごく最近も、そのようなことが2回ありました。
ひとつは、冒頭の写真について。
あるイギリス人女性の語りを聞いて
先日イギリスを旅行したときに、滞在先の民家を清掃に来たハウスキーパーの女性と仲良くなりました。
彼女は「さいきん自叙伝を書いたから送ってあげる」と言いました。数週間後、届いたのが写真のこれです。
彼女は敬虔なクリスチャンで、タイトルには『愛って何? 神こそ愛』とあります。信仰や価値観は人それぞれなので、その是非については触れません。
私が触れたいのは、その次です。タイトルの下にあるアオリ文句を”超訳”すると、こうなります。
「児童養護で育ったことから始まり、性風俗での仕事から逃れ、新しい人生の再構築へと至る、ある女性の旅路」。
彼女の両親や祖父母に彼女を育てる力がなかったため、彼女は早いうちから児童養護施設を転々としていたそうです。
施設を半ば脱走のように出たあと、彼女はそれが何かを知らぬまま「愛」を求めてさまよい、いつしかセックスワークの世界で働くようになります。彼女はマレーシアや香港などを転々とし、複数の男性との間に4人の子をもうけます。
その後、彼女はアメリカで実母と再会し、人生の伴侶にも巡りあって、現在はイギリスで幸せに暮らしています。
私たちが彼女と初めて会った日は、離れて暮らしていた彼女の子の一人の結婚が決まった直後で、彼女はとても幸せそうでした。その興奮の冷めやらぬまま、彼女はイギリスから東南アジア、アメリカ、そしてイギリスへと帰還するに至る「旅路」について語ってくれました(清掃は後回しにして・・・)。
私は、その激動さとはあまりに対照的な彼女の明るいエネルギーに圧倒されるのを感じながら、それを聞いていました。
ある支援者の語りを聞いて
2つ目は、おととい、ひきこもり状態にある方のご家族の集まりにお邪魔したときのことです。
私はそこで『なごや若者サポートステーション』のセンター長である鵜飼数正さんのご講演を聞きました。鵜飼さんは、ご自身にも「ひきこもり」の経験がおありとのことでした。
鵜飼さんは、支援者として「ひきこもり」支援の現状や制度のご説明をされているときはメガネをかけられていました。
お話の後半になり、ご自身の「当事者」としての体験や、ひきこもっていた当時のお気持ちを語り始めると、鵜飼さんはメガネを外されました。
私はそのとき、お話しされる鵜飼さんの表情も少し変わったような印象を受けました。
私はそこに、鵜飼さんの「わたし=minä」が現れたような気がしました。
私は「ああ、鵜飼さんはこういう方だったのか」と思い、魅力を感じました。
また、安心感も覚えました。
私は、眼の前の人が「なぜ・どんな想いで」それをやっているのかが分かると、とても安心し、嬉しくもなります。
それは、その人がその人自身=minäになっているように感じられるからです。
制度の説明は(極端に言えば)誰がやってもいいし、各人がグーグル検索すれば、説明すら要らないこともあります。
しかし「その人の想い」「その人の人生」は、その人にしか語ることができません。
「わたし」の味方は「私」
「語ること」は、自分のこれまでの人生を無視せず、批評せず、受け止めてあげることだと思います。
私が語ってあげることで、これまでの「わたし」が救われるのだと、私は思います。
私たちは、人生の途上で出会うさまざまな困難を生き延びるため、ときに、ひきこもったり何かに依存したり、あるいは「いけないこと」をしたりします。
そのような逆境にあるときに「わたし」にとって最も残酷なことは、当の「私」自身が「世間」や「常識」の側の視点に立って「わたし」を批評したり、分析したり、ダメ出しをしたりすることではないでしょうか。
私たちは案外これをしがちです。
私はこれまで、自分の人生を「恥ずかしい」と感じたり、罪悪感さえ覚えたりすることがありました。
もちろん、これまでに私が傷つけてしまった人たちには、(機会に恵まれれば)埋め合わせをする必要があります。
しかしながら、私は「そうせざるを得なかった、その当時の『わたし』」に対しては、どこまでも味方でありたいと思うようになりました。
だって、私たちはいつでも一生懸命だったんですから。
どんな人生だったにせよ、それを「語る」ことは、自分で自分をないがしろにすることを止めて「わたし=minä」になるための、とても素敵な方法だと、私は思います。
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