「弱さ」と対話する

最終更新: 5月26日


1ヶ月間ずっと添い寝してくれたオリバー(2016年紅葉の頃、トロントにて)

精神保健や障害福祉の世界では、最近よく「弱さを絆に」とか「弱さの情報公開」ということが言われます。


自分の「弱さ」を周囲にオープンにし、つながって助け合うきっかけにする。そうすれば、病気や障害という従来「マイナスでしかない」と思われてきたものが実は生きる上でかけがえのないものだったということに気がつき、それらを否定も排除もせずに自分の重要な一部として生きていける、というような考え方です。


実は、私はこのことが理屈としてはよく分かる反面、「自分ごと」としてはピンときていませんでした。


私にも「生きづらさ」は山のようにあります。しかし、私はそれを、人とのつながりを生むようなポジティブなものとしては考えてきませんでした。


むしろ、改善すべき・なくすべき・治すべきものとしてとらえていたような気がします。


確かに、私にも「生きづらさ」による「つながり」はあります。自助グループがその一つです。


しかし、私はそれすらも「生きづらさ」がなくなるまでの一時的な、あるいは「生きづらさ」をなくすための手段的な、仮のつながりだと考えていたような気がします。






「弱さ」とは何か


私が「弱さを絆に」という言葉や考え方を受け入れづらかった理由は、「弱さ」があるのは自分のせいではない、という思いがあったからです。


私は、「弱さ」と言われると、何かそういう「ダメなもの」を自分がもともと持っていて、それは自己責任である、と言われているような気持ちになります。


今日ちょっと考えて、「弱点」なら受け容れやすいかなと思いました。


「弱点」はウルトラマンにもありますもんね(彼は地球上に3分間しか滞在できない)。


では「弱さ」あるいは「弱点」とは何でしょうか。


私は、弱さ(弱点)とは「人の助けを必要とするところ」だと思います。


先日の「受援力」の話とつながりますが、「自分が人の助けを必要としている」ということは決して悪いことではないんですよね(ここ重要)。


なぜなら、人は助けたり助けられたりすることで、信頼しているというメッセージを送り合ったり、安心感や自己肯定感を高め合ったりできるからです。


もしかしたら「弱さ」こそが幸福の鍵なのかもとすら思えてきます。





「弱さ」の「あり方」


ところで、「弱さ」の「あり方」には大きく2種類あるように思われます。


「わたし」というものを「家」に例えると、「弱さ」は「わたし」という家の「主」になっているか、または「お客さん」になっているか、どちらかであるように私は感じます。


「弱さ」が「主(あるじ)」になっているとは、自分という人間がその「弱さ」そのものであると信じ込んで、とらわれて生活している状態です。「弱さ」に対して無力(パワーレス)な状態と言えるかもしれません。


幻聴がガンガンに猛威を奮っていたり、「自分なんていないほうがいい」という「早期不適応スキーマ(よくない信念)」にもとづいた行動や反応(自分を粗末にするような)を繰り返していたり。


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「弱さ」が「主」のときは、自分が健康だったり自信を持てたりというイメージのほうが逆に「不自然」「ありえないこと」と感じられます(コーチング等では「uncomfortable= 落ち着かない」状態と表現されますね)。


個人的に、「治療」や「回復」に取り組みやすかったのは、この「弱さが主になっている」状態のときでした。


というのは、この場合は単純に悪いもの(弱さ)を追い出したり、反対に良いもの(強さ)を招き入れたりすればよいからです。


精神症状があれば薬で抑える。


「自分はいないほうがいい」などという不適応的な信念(スキーマ)が跋扈していれば、「スキーマ療法」を通じて「自分には存在価値がある」というハッピーなスキーマに書き換える。


これら「ネガティブなものを減らしポジティブなものを増やす」という方向の取り組みは、端的にうれしく、気持ちがいいものです。


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反対に、難しいのは「弱さ」が「お客さん」である場合です。


というのは、この場合「弱さ」という「お客さん」を「いないことにする」ことができてしまうからです。


専門用語では「否認」といいます。「弱さなんかないよ!」「わたし大丈夫だもん!」と否定することで、あるいは目を背けることで、間接的にその存在を認めてしまっている状態です。


やっかいなのは、「弱さ」は無視すればするほど(否認すればするほど)、強くなってくるということです。



「弱さ」と対話する


では、「お客さん」(自分の中のマイノリティあるいは厄介者)としての「弱さ」とは、どのような関係をとればいいのでしょうか。


よく言われるのが「弱さの存在を否定しない」「受け容れる」「向き合う」です。


「弱さの存在を否定しない」というのは、マインドフルネスとか、スピリチュアルでよく言われることです。


私の好きなスピリチュアル系の人は「弱いのは事実なんだからしゃーない。否定したり変えようとしたらダメ」と言います。


マインドフルネスでも「弱さがあるなー」と眺めますね。


第3世代認知行動療法のひとつ「アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)」では、もう少し積極的に、「弱さ」を「受け容れ」ようとします。


ACTでは、「弱さ」の存在を認めつつも、自分とそれとを融合(フュージョン)せずに自分の信じる価値に従った行動をとろう、と説きます。


「弱さと向き合う」もほぼ同じ意味なのですが、ここには「弱さを克服しよう」みたいな意味合いが込められているような気がします。


個人的には、「否定しない」「受け容れる」というのをやってきました(「向き合う」は何だか戦う感じがして好きではありません)。


それが、ここへきて「お客さん」としての「弱さ」との「もうひとつの関係性」があることに気がつきました。


それは「弱さと対話する」です。


ほんとうに「お客さん」として歓迎する、と言ってもいいかもしれません。


これは、いま読んでいる『プロセス指向心理学入門』という本から学んだ考え方です。





「プロセス指向心理学」では、不快な「お客さん」(専門用語で「2次プロセス」と呼びます)を否認せず、ただ「受け容れる」のでもなく、積極的にコミュニケーションを取ろうとします。


「弱さ」からメッセージを受け取ろうとするのです。「弱さ」は私に何かを伝えたいはずだ、と。


確かに、「弱さ」が我が家の「お客さん」だとして、ただ単に客間にお通ししただけ(受け容れただけ)では何だか落ち着かないですよね。そこから先どうしたらいいんじゃ、と(ACTでは客間に通したら自分の仕事に戻れ、と言うわけですが)。


「向き合」って「問答」するのも何だかしんどい。


客間にお通しして、さらにご用件をうかがう(傾聴する)というのは、非常に自然な気がします。対話的でもあります。


考えてみれば北海道の「浦河べてるの家」発祥の「幻聴を”さん”付けで呼んで付き合う」とか「当事者研究」とかってそういうことじゃないか、と私は思いました。


私は以前から「ひとり当事者研究」に取り組んでいたのですが、冒頭に書いたとおり、どうもしっくり来ていませんでした。自分が思っている「弱さ」と当事者研究でいう「弱さ」とはどうも別のものなのではないか、という気がしていたのです。


私はずっと、「アダルトチルドレン」とか「トラウマによる身体反応」があること、あるいは「早期不適応スキーマ」を自分の「弱さ」だと思っていました。


それは、それらこそ私にとって「私を支配する、メジャーな困りごと」だったからです。つまり、それらが私自身をおしのけて「わたし」という「我が家」の「主」の座に納まっている感じがしていたのです。


だから、私にとって「リカバリー」とは、ずっと、それら「弱さ」という暴君を追放する正義の革命のようなものでした(道理で気持ちがいいわけです)。


しかし、私が真に「研究」すべきだったのは、そんな革命家の私につきまとう「お客さん」としての「弱さ」だったのかもしれません(思えば当事者研究でも「マイナスの『お客さん』」って言っていましたね)。


遅まきながらそう気づいた私は「プロセス指向心理学」のワークを自分で自分に実施し、「お客さん」としての「弱さ」と対話を始めました。


これが毎回、身悶え&号泣しながらになるので、ビジュアル的にはキモいです(;´Д`)


ちなみに、「お客さん」としての「弱さ」が私に何よりも伝えたかったメッセージは「俺のことを見ろ」「そして忘れるな」でした。


ということで、ずっとうすうす気がついてはいたものの否認していた私の「弱さ」(お客さん)を、ここに公開したいと思います。


  • 集団に所属すると原家族を投影&フラッシュバックしてしまい、恐怖や怒りにかられてうまく馴染めないところ

  • でも平気でマトモなふりをしてしまうところ

  • 人に「助けて」と言えないところ

  • ちょっと自暴自棄な面があるところ

  • そんな自分を人に見せられないところ


つまり「弱さ」を否認したり公開できないでいたりするところが私の「弱さ」なのですね(そして、それゆえ「絆」から疎外されてしまうところが)。


長かったですけど、読んでいただいてありがとうございます。


私の「弱さ」を知ってくれて感謝します。




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