先日、「BEAMS」という医療関係者向け児童虐待対応プログラムのいちばん基礎の研修(Stage1)を受けてきました。
「BEAMS」というのは「Be A Medical S---」の略だそうで、「医療界における〇〇になろう」というような意味です。「S---」の部分には、段階(Stage)ごとに異なる単語が入ります。私が受けた「Stage1」のねらいは「Sentinel(見張り番)」になること。児童虐待のサインを見逃さない支援者になりましょう、ということです。
どうしてこの研修を受けようと思ったかというと、「オープンダイアローグ」のトレーニングコースで白川美也子さんと知り合ったのがきっかけでした。白川さんは医師で、私が愛読する『赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア』の著者でもあります。
トラウマインフォームド・アプローチ
白川さんとの出会いをきっかけに、私は「トラウマインフォームド・ケア」「トラウマインフォームド・アプローチ」という言葉を知りました。
「トラウマインフォームド」とは、「トラウマって、多くの人にあるよね」「気を抜くと、人を傷つけてしまうよね」ということを前提に支援や連携がなされるということだと私は理解しています。この「前提」がないから、「分かってもらえなかった」や「たらい回しにされた」が生じると、私は思います(「抱え込み」や「バーンアウト」もそうかもしれません)。
私には、自分が「相談室おうち」という活動を始めた動機を、「トラウマインフォームド」という言葉によって、非常にスマートに表現してもらったような気持ちがしました。私は「トラウマインフォームド」な相談支援がしたかったのです。また、私が「オープンダイアローグ」に惹かれたのも、それが自然と「トラウマインフォームド」になっていると感じられたためです。
ただし、オープンダイアローグを実践する私自身や、チームとしての私たち、それから連携する相手が「トラウマインフォームド」になってないよなあとも感じられます。
私自身の反省を述べます。
私は自分のトラウマについては理解を深めてきましたが、他者のさまざまなトラウマ体験にはまだまだ無知です。そのため、無意識に加害者側に迎合して、被害者の被害(つらいことがあった人のつらかったという訴え」)を否認してしまうことがあります。それは、被害者に二次加害してしまうことであり、「トラウマインフォームド」な支援者が最も避けなければならないこと(最トラウマ化)の一つです。
だから私は、このBEAMS研修を受けようと思いました。これは、私自身の「トラウマインフォームド化」の第一歩です。
心理的虐待をなくしたい
BEAMSは医療機関向けのプログラムということもあり、研修では、医療機関での診察中などに身体的虐待が疑われる所見があったときの対応のような話が中心になされました。身体科(精神科界隈では、精神科に対して他の科をそう呼ぶことがあります)の医療機関ではやはり身体的虐待(や、ネグレクト)をキャッチしやすいですし、なかでも婦人科や産科では性的虐待や産後の虐待リスクの高そうな家庭もキャッチしているようでした。
興味深かったのは虐待の歴史でした。日本の虐待防止の取り組みはアメリカやイギリスと比べると、動き出しで100年、法制化で40年ほど遅れているようです(なぜでしょう)。
また、Children First(子どもがどう感じているかを最優先に考えること)、虐待の6割ほどが世代間連鎖する(被害者だった子が大人になり加害者になる)こと、overtriage(過剰なほどのチェックの目)が必要なこと等も、私にとっては新しい学びでした。
そのようなことを学びながら、私は自分の関心や立ち位置のことも考えていました。私の関心(というか願い)は心理的虐待ケースの早期発見と介入、できたら予防です。
「心理的」虐待といっても、それを慢性的に受け続けると、それはトラウマ化し、脳や神経、つまりは身体にも異変が起きてしまいます(”身体内部虐待”とも言えるのかもしれません)。
明瞭な身体的虐待を伴わない心理的虐待のケースでは、不自然な外傷を負ったり低栄養状態になったりしないため、医療機関につながる機会がありません(余談ですが、私の父親は「顔はやめな、ボディーボディー」by三原某よりさらに上手で、アザなどのできない関節技が好みでした)。
心理的虐待の加害者に依存症があって精神科にかかることでもない限り、それが周囲から見えるようになるのは、「ひきこもり」とか「リストカット」とか、いつだって「被害者に何か起きてしまった(トラウマ化した)後」なのです。私はそれが悲しいです。
そのような、被害者が人生をかけた”異議申立て”すら、「本人が病気」ということにされてしまうこともあります。あとは、彼/女らがそのようなサバイバルを幸運にも生き延び、大人になって告発するを待つしかありません(「毒親」などはその一例ではないでしょうか)。しかし、時間(大切な子ども時代)は取り戻せませんし、彼/女らは「その後」の人生にもさまざまな困難を抱え続けます(フラッシュバック、対人関係の問題、依存症…)。
(関連記事:回復を速めてくれたものたち⑧『その後の不自由』という本)
私は、心理的虐待の加害者がそれを自覚せず、そのため責任も取らずに生きていけてしまうのにも憤りを感じます(いじめた側の生徒が学校に通い続けられるのに、被害児童が不登校になってしまうのと似ています)。
生きづらさを生む「ふつう」はおかしい
私にとってもう一つ恐ろしいのは「学校」です。学校は家庭以上に治外法権の密室で、児童虐待防止法での介入も困難なようです。
私の個人的な体験では、一定割合の教員が、児童生徒に対して日常的に身体的虐待をしていました。他の教員もそれを黙認していました。
心理的虐待に至っては、多くの教員の口から出る言葉がそうでした。日本で「教育」と呼ばれているものそれ自体がそうなのではないかと思うほど、教員による心理的虐待は子ども時代の私の日常の風景でした。
以前、OECDが世界の精神科病床数を調べていて、日本だけ突出して多いので「きっとこれは我々が精神科病床と呼んでいるのとは別の何かなのだ」と思ってデータ取るのを止めたという話をどこかで聞きましたが、日本の「教育」も、諸外国のそれとは別の何かなのではないかと、疑ってしまうほどの体験を、小学校から高校までの間、私はしました。
この心理的虐待は家庭や学校にとどまらず、職場でも、それこそ医療福祉の現場ですら起こっていて、あまりに日本の「ふつう」なので、あまり問題になることがありません(〇〇ハラスメントはもちろん、「愛の鞭」や「あなたのためを思って」、「怒ると叱るは別」とか「冗談冗談w」とかも、全部そうだと私は思います)。
ひきこもり状態にある方の親御さんが「ふつうに育てたのに…」とおっしゃるのをよく聞きます。お話を聞くと、実際に「ふつう」にお育てになったんだなあ、と感じられることが多いです。
そういうときは、その「ふつう」が何かおかしいのではないかと思います。
(余談ですが、これほど日本の「ふつう」が生きづらさを生む=虐待的な原因は、太平洋戦争の戦時トラウマが社会をあげて世代間連鎖しているからで、これは公衆衛生の問題だと個人的には思います。)
対話する未来を目指して
暗くて重たい話ばかり続きましたが、全体的には虐待防止の未来は明るいと私は考えています。
医療機関その他で早期にキャッチされ、子育て支援につながることは、身体的虐待やネグレクトの防止だけでなく、心理的虐待の予防にもなるでしょう。先ほども書きましたが、虐待の世代間連鎖率は60%とのこと、数学的には時を経れば自然減します。私が受けたBEAMSの会場には、日曜にもかかわらず100人くらいが来場しており、社会的な関心も高まっています。
ただ、いたましいのは、今こうして未来が少しずつ明るい方へ向かっている間にも起きている心理的虐待です。
そして、私自身が傷つけられたのと同じように、私自身も知らないうちに人を傷つけているかもしれないということを恐れます。
だから私はオープンダイアローグを実践します。そして、オープンダイアローグの価値を損なわない「トラウマインフォームド」な人間になるように努めたいと思います。そして、その先に、「対話するという文化」が日本社会に浸透することを願っています。
オープンダイアローグをはじめとする対話実践とその普及は、心理的虐待の、ひいてはすべての虐待の予防と治療になります。私ができることはそれかな、と思っています。
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