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「スピリチュアル」の良いところと危険性

更新日:2021年5月17日



明けましておめでとうございます!


今年もぼちぼちとブログを書いていきたいと思います。読んでいただけたらたいへん嬉しいです。


今日は「スピリチュアル」について書いてみたいと思います。



スピリチュアルとは


個人的には、「スピリチュアル」とは「科学的な裏付けはないけれど、世界の仕組みや自分の苦しさについて説明してくれたりして、人生を楽にしてくれる(と言われている)もの」くらいに考えています。


代表的なのが「神様」や「仏様」、つまり宗教ですね。


他にも、「宇宙」「前世」「天使」「魂」みたいな言葉を使って世界の成り立ちや人間の幸不幸の理由を説明する人たちもいますね。


医療福祉の世界でも近年、「バイオ(生物学的な医学)」「サイコ(心理学)」「ソーシャル(社会的・福祉的なもの)」に続く第4の要素として、「スピリチュアル」の重要性に注目が集まっています。


人間の生きづらさとか幸福とかいったものを巡っては、どうやら、科学的なもの(バイオ・サイコ・ソーシャル)だけでは解決し得ない領域があるようです。


実は、私も昨年くらいから、スピリチュアルなもの(科学的でないもの)が自分の生きづらさからの回復に非常に効果的であることを「体感」し始めています。


その一方、「科学的でないもの」に対する不信感も根強く持ち合わせているのです。


今日はその辺のことを整理してみようと思います。



「スピリチュアル」に対する不信感の理由


私がスピリチュアルなものに対して不信感を持っている理由は、スピリチュアルを信じている人たちの一部に、他人の考えを否定したり不安を煽って商売をしたりする人がいたからです。


私の親族には、スピリチュアルな言説をベースにしたマルチ商法の被害に遭った者がいます。


私自身にも、スピリチュアルな団体から勧誘された経験があります。中学生のころには、よく遊んでいた同級生が彼の親に連れられて、我が家へ新興宗教の勧誘に来たことすらあります(彼の気まずそうな顔を覚えています)。


かつて私の支援していた、障害を持つ方がたの中にも、貴重な障害年金で高価なグッズを買わされたり、複数の(読みもしない)機関紙を契約させられたりしていた方が、少なからずいます。


そのような体験から、私はスピリチュアルなもの全般を長いあいだ敬遠していました。



スピリチュアルは「旨い、早い、安い」


私と「スピリチュアル」のポジティブな出会いは、2014年に「自助グループ」に初めて行ったときでした。


その自助グループはもともとキリスト教会が発祥で、「個人的努力を超えた力のようなもの」に物事を委ねてみることを推奨するプログラムを実施していました。


2016年になり、生きづらさからカナダでフラフラしていた私は、当地でキリスト教の洗礼を受けることにしました(無宗派)。


これは「個人的努力を超えた力のようなもの」に物事を「委ねてみる」練習のつもりでした。形から入るタイプなので、「洗礼」まで受けることにしました。


自分があの ”ヤバい人たち” の仲間になるのかと思うと怖かったですが、その怖さも「手放して」「委ねて」みることにしました。



帰国の迫るなか急遽、嵐のオンタリオ湖で受洗(右端が私)
帰国の迫るなか急遽、嵐のオンタリオ湖で受洗(右端が私)

正直にいうと、洗礼を受けたからといって何かが劇的に変わるわけではありませんでした。


私は依然として、個人の努力で何とかしようとする、「助けてと言えない」私のままでした。


昨年になり、私はもうちょっと「伝統的でない」、より ”ヤバげ” なスピリチュアル言説にも、インターネットを通じて触れるようになりました。


それら「スピリチュアルな人たち」による世界や人間の心の「説明」は、大体において非常に分かりやすく、納得的に感じられました(ついて行けない部分も多かったですが)。


感覚的には、これまで活用してきた科学的な方法がもたらす効果やその仕組みと、大きくは異ならないような気もしています。


ただし、エビデンス(科学的証拠)はありません。


医学(バイオ)や心理学(サイコ)といった「科学的なもの」が世界についての教科書なら、スピリチュアルな言説は世界を分かりやすく描いた「絵本」や「おとぎ話」のようなものではないかと思いました。


(私は常々、精神医学も仏教も心理学もスピリチュアルも哲学も、突き詰めると同じことについての異なる表現だと思っています。)


あるいは、医学や心理学が厳密な「レシピ」なら、スピリチュアルは「平野レミさんのする料理」のような感じでしょうか。


「絵本」や「平野レミさんの料理」は教科書やレシピより端的です。「簡単」で「おもしろい」です。


「教科書」のような難しいプロセスが省かれており、始めてから効果を表すまでが速いです。


スピリチュアルなものは、図書館やYoutubeを使えば無料で自分でもできます(私は無課金派なのです…)。病院のように保険証も要らなければ、カウンセリングのように次回予約まで2週間も待つ必要だってありません。


まるで牛丼のようです。「旨い、早い、安い」。


それがきっと、スピリチュアルの長所でもあり短所(危険性)でもあるのだろうと思います。



スピリチュアルは ”自分用”


私はソーシャルワーカーとして長らく医療福祉の世界で働いてきたので、クライエントにスピリチュアル(科学的でないもの)を勧めることはありません。


他人にお勧めできる、ということは「科学的である」ということです。


「科学的でない」スピリチュアルは、あくまで「自分用」です。


逆に言うと、個人的な回復においては、私は「科学的な」方法(医療や心理学)の、安全であるがゆえの「遅さ」「高さ」「効果の薄さ」が不満でした。


つまり、科学的なものは「コスパが悪い」のです。


私は、”自分用” のものは「効果があればなんでもいい」と思っていました。


実際に、現在までに、いくつかのスピリチュアルな方法によって、私は猛スピードで楽になっている感じがしています。


しかし、それを人にお勧めすることはしません。


それは、私は「それぞれの人の世界観」を尊重すべきと思っているからです。


つまり、私は「勧誘」されたくないのです。


私たちは自分の世界観にものすごくフィットする言説に出会ったとき、感動のあまり、それを他人にも勧めたくなることがあります。


そうしないと、自分の世界観が肯定されないような気がするからかもしれません。


しかし、この世界には無数の世界観があります。人の数だけ。「他者」の数だけ。


私がかつて嫌な思いをした「勧誘」や「商売」は、世界観の押し売りです。しかも、それは相手の世界観を否定して行われます。


そういったことが、私は好きではありません。


そういう行いを目の当たりにした経験から、かつての私はスピリチュアルを敬遠していました。


しかし現在は、「バイオ」「サイコ」ソーシャル」に次ぐものとして「スピリチュアル」が自分の回復に不可欠と感じ始めています。


思えば、私が「〇〇が好き」とか「〇〇が嫌い」とかいうことに科学的根拠はありません。


同様に、私が私の人生をどういう物語として捉えながら生きていくかもまた、科学的でない話です。


私はわたし。


私はこんな「わたし」。


そのことに科学的な立証は要らないのですね。「わたし」はもともとスピリチュアルな存在だったのかもしれません。



*****


今日も読んでいただいてありがとうございました。


今年も楽しいことうれしいこと、いっぱいあるといいですね!




 





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